今やよく知られるシリアルキラー(連続殺人鬼)とは、元FBI捜査官であるロバート・K・レスラーがテッド・バンディにつけた名称である。
甘いルックスとIQ160の頭脳で若い女性を次々と手にかけいったテッド・バンディ。
5つの州で36人を殺害したことが明らかになったが、実際の犠牲者は100人を超えるという。
そんな全米を震撼させた悪魔のような人物に触れていきたい。
またテッド・バンディは映画化されており、2019年12月20日に公開されているので興味を持った人は是非見ていただきたい。

生い立ち~高校時代
テッド・バンディ(本名セオドア・ロバート・バンディ)は、1946年11月24日アメリカのバーモンド州バーリントンで、母親であるエレノア・ルイーズ・カウエルのもとに生まれる。
ルイーズは当時22歳だった。
父親は不明でルイーズは未婚のためテッドは、私生児(婚姻外の子供)だった。
当時片親というのは不名誉な時代であったため、テッドは祖父母の子供として、ルイーズは年の離れた姉として育てられた。
実の母が姉という奇妙な家庭で育つテッドは、次第に違和感を覚え始める。
厳格で気性の激しい祖父は怒ると、ルイーズとテッドに暴力をふるっていた。
このテッドの気性の激しさは祖父譲りだと言われている。
逆に祖母は臆病な人だったと証言している。
テッドは恥ずかしがり屋の普通の子供であったが、ナイフに興味を持ち始めるなど次第に異変が起き始める。
ナイフを使った奇行が目立つと家族も不安に思うようになった。
テッドが5歳の頃、ルイーズは従兄弟が暮らしているワシントン州タコマに移り住む。
そこでルイーズは、病院の料理人であるジョニー・バンディと出会い、結婚した。
ジョニーはテッドを実の子供のように接したが、テッドとの仲は深まることはなく、テッドはガールフレンドに「彼は冴えないし稼ぎも悪い」と不満を漏らしていた。
テッドは、「夜な夜な外を徘徊し、女性の裸を覗き見ていた」や「人間と接する意味が分からないから、独りを好んでいた」と語っているが、同級生は明るく、好青年だったと語っている。
大学時代~
1965年に高校を卒業し、近くのピュージェットサウンド大学に入学したが、一年間だけ通い、中国語を勉強するためにワシントン大学に転校した。
1968年にワシントン大学を退学し、仕事を転々としたが1969年にはワシントン大学に再入学することになる。
この頃に出生記録を見て、両親が祖父母で本当の母親がルイーズであることを知った。
テッドは心理学を専攻したが非常に優秀で、教授に大変気に入られた。
そして大学の医学部職員のエリザベス・クロプファーと付き合った。
二人の愛は、クロプファーがバンディを殺人の容疑者として警察に通報するまで続いた。
ワシントン大学を卒業後、テッドはピュージェットサウンドロースクールに入学した。
だが数ヶ月後にはテッドは通うのをやめてしまう。
そして、1974年1月に狂気が始まる。
最初の事件~
テッドの最初の事件は、ワシントン大学の学生のダンサーである18歳のカレン・スパークスへの暴行だった。
カレンのアパートに侵入し、ベッドパイプで就寝中の彼女を殴り性的暴行に及んだ。
この暴行により、カレンは10日間の昏睡状態となり、永続的な後遺症が残ってしまった。
そして次に起こすのはテッドの最初に確認された殺人事件。
被害者はワシントン大学の学生でスキーヤーのリンダ・アン・ヒーリー。
カレンへの暴行のおよそ1か月後、テッドはリンダのアパートの侵入。
リンダを殴り気絶させると服を着せ、彼女を連れ去った。
そして数年後、彼女の頭蓋骨の一部が発見された。
これをきっかけに、狂ったように地元の女子学生を次々襲い始める。
テッドはギプスを腕や足にはめ、けが人のようにターゲットの女性に近づき、手伝ってもらうように交渉し、クルマまで巧妙に誘う。
そしてバールなどの鈍器で殴り、連れ去る暴行殺人を始めるのだ。
これが彼のお得意の手段だった。
そして彼の端正なルックスと毎朝練習して作る笑顔に多くの女性が騙され、命を奪われる結果となってしまった。
逮捕まで
1974年の秋ごろ、テッドにユタ州のロースクールからの合格通知が来たため、クロプファーを残してソルトレイクシティに引っ越してしまう。
そしてそこでヒッチハイカーや若い少女を次々と殺し続け、暴行を重ねた。
ユタで殺人事件が連続して起こっていることを不審に思ったクロプファーが、警察に連絡する。
実は彼女はこの電話が初めてではなく、過去に数回かけていた。
こうした結果、テッド・バンディを指し示す証拠が山積みになっていき、ワシントンの調査官がデータベースの情報を照らし合わせるという現代では当たり前になってはいるが、当時では画期的な手法で照合すると、バンディの名前が容疑者リストのトップに表示された。
警察や周囲の関心の高まりに気づかず、テッドは殺人を続け、ユタ州の自宅からコロラド州に向かい、そこで若い女性を殺害する。
1975年、テッドは警察に引き渡されることになる。
逮捕
ソルトレイクシティ郊外を車でドライブしていたテッドは、警察に止められる。
そして車内を捜索すると、バール、フェイスマスク、ロープ、手錠、アイスピックなどが発見された。
これらでは逮捕に踏み切れる証拠にはなりえなかったが、疑念が確信に変わった警察は、テッドを24時間監視するようになる。
そして彼が所有していたフォルクスワーゲンタイプ1を少年に売り渡した際に、警察が捜索すると車内から犠牲になった3人分の女性の毛髪が発見される。
これによりついにテッドは逮捕された。
しかし彼は殺しをやめない。
なんと2回も脱獄しまうのだ。
脱獄
一回目
自ら弁護を名乗り出たテッドは、過去の判例が見たいと言い、裁判所図書館に行く。
中に入ると気づかれないように、辺りを物色した。
その中の棚の死角になった窓に気が付くと、そっと気づかれないように脱走を試みる。
そこは二階からの飛び降りだったが、片足をねん挫するだけで何とか外に逃げ出すことができた。
そして車を盗み、逃亡するが資金不足で遠くに逃げれず、6日後に警察に発見されて捕まってしまう。
二回目
その半年後、テッドは刑務所にいた。
刑務所の構造を把握したテッドは、他の受刑者に弓ノコなどを調達してもらい自分の部屋の天井に穴を開けた。
その穴から登った先の、小さな開口部に収まるように体重を落とした。
今回は資金も調達しているため、前回のようにすぐに捕まることはない。
そしてテッドは脱獄を決行する。
刑務官は、非番の者が多い日を狙われたため、15時間もテッドがいないことに気づくことが出来なかった。
刑務官が気づき、騒ぎになっていたころにはテッドは盗んだ車でシカゴに来ていた。
そして殺人を繰り返す。
美才のシリアルキラーの弁護
1978年、不審な車両を目撃した警察官にテッドは止められた。
登録ナンバーを照合したところ盗難車と判明したため、テッドは必死に抵抗するが、その場で取り押さえられ逮捕されてしまう。
「いっそのこと殺してくれ!」
テッドは叫んだ。
1979年、学生寮での暴行・殺人容疑で裁判が始まった。
テッドは自ら弁護して、ことごとく容疑について否定した。
ロースクールで得た知識と弁論がここで役にたった。
その雄弁な姿に女性ファンが増え、その人気たるや女性たちに「彼のような人が殺人なんてするはずがない」と思わせるほどだった。
端正なルックスと、IQ160といわれる頭脳。
テッドは微笑んでいた。
だが検察も引き下がらず、強力な証拠を提示する。
それは学生寮でテッドの目撃証言に加え、遺体への嚙み痕だった。
テッドはひどく興奮して裁判長に罵声を浴びせる。
だがそんなものは意味はなく1979年7月24日、テッドは死刑宣告を受ける。
リバーマンの捜査協力
1984年10月、ロバート・ケッペル捜査官のもとにテッドから手紙が届きます。
当時、「グリーンリバー殺人事件(グリーンリバーキラー)」の捜査協力を申し出てきたのだ。
グリーンリバー殺人事件は、1982年から1984年にかけて起きた連続殺人事件である。
当時のFBIのプロファイリングは実に雑で、捜査が難航していたためロバートは、テッドの申し出を受けることにした。
テッドは一つの分析として、
「連続殺人犯の心理として、死体と性交するために彼の投棄場を再訪する可能性が高い。」
とロバートに告げた。
同じ連続殺人鬼であるテッドの助言で捜査に進展はなかったというのが定説ではあるが、警察の捜査方法が悪かったという意見もあり実際のところは不明である。
テッド・バンディの最後
証拠や手口を小出しにして死刑を延期させていたテッドに最後の時が訪れる。
テッドは最後の夜、母親であるルイーズを2回も呼び出し、神に祈った。
そして最後の食事を訊かれても答えることはなく、標準的なトーストなどの食事を出されても手を付けることはなかった。
テッドは最後に、
「家族や友人に愛をささげたい。」
そう言葉を残して、恐ろしい殺人に満ちた人生を電気椅子の上で閉じるのだった。